第十一章 崩れはじめた前提
通帳を閉じても、
疑問は閉じなかった。
――なぜ、私だったのか。
長谷川は慎重な人だった。
証拠を残さない。
自分名義では動かない。
家は母親名義。
子ども名義。
弟の妻名義。
現金はATM。
徹底していた。
それほど用意周到な人が、
紀子の名義だけは使った。
偶然とは思えなかった。
「名義を貸してほしい」
あの日の声がよみがえる。
「一時的なものだから」
「すぐ戻すから」
「一緒にやっていくための準備だよ」
未来を語る声だった。
二人で築く何かを、
疑いなく信じていた。
疑う理由がなかった。
信じたことに、誇りさえあった。
だが今は違う。
あの言葉は、
私を必要としたのではない。
“私の名義”を必要としたのだ。
長谷川が収監されたあと、
紀子は事業に関わった人々へ連絡を入れた。
最初に電話をしたのは、桐原だった。
白樺湖の事業で、
紀子を解雇した人物。
電話口の声は静かだった。
「全部、わかっていたよ」
時間が止まった。
あの事業は桐原の資金で始まった。
祝賀会の日。
長谷川は呼び出され、
紀子は茅野のスーパーで車を降ろされた。
二時間。
戻ってきた彼は、血相を変えていた。
「撤退だ」
理由は語られなかった。
後から聞かされたのは、
桐原が手を引いたこと。
そして紀子の解雇。
帰りの車で彼は言った。
「敵だらけだ」
「長谷川下ろしだ」
怒りに満ちていた。
あの時は、そう見えた。
だが、通帳は別の物語を語っていた。
桐原への多額の振込。
長谷川は、借りていたのだ。
事業は成功物語ではなく、
返済装置だった。
祝賀会の日の怒り。
撤退。
労基署。
すべての意味が反転する。
怒っていたのではない。
追い詰められていたのだ。
そして焦りを、
「敵」という物語にすり替えた。
私はその物語を信じ、
隣に立っていた。
さらに調べると、
複数の口座の痕跡が浮かび上がった。
差し押さえを避けるための分散。
知らされていない資金の流れ。
私の知る残高は、
表面にすぎなかった。
偶然ではない。
設計だった。
次に接触したのは、黒川。
一般社団法人の理事長。
政治歴のある男。
だが税金未納の過去もあった。
格上げ計画は頓挫していた。
私は何も知らなかった。
知らされていなかった。
通帳には、
毎月百万円の振込。
法人給与。
理事長報酬。
施設利用料。
アルバイト代。
その中に、
愛人と思しき女性と子どもの名。
金額は静かだ。
だが流れは雄弁だった。
私は中心ではなかった。
通過点だった。
黒川は距離を取った。
立場が危うくなると、
責任は外へ流れた。
脅迫を受けたイベント会社に
私の携帯番号を伝えたのも彼だった。
黒川の娘は言った。
「何かあったら、私たちはここに住めなくなる」
土地の現実だった。
名前と立場。
それがすべての世界。
ようやく理解する。
長谷川は、
金だけでなく、立場も動かしていた。
政治。
法人。
地域。
名義。
絡み合い、
見えない糸で結ばれている。
それは網だった。
私は外側にいると思っていた。
巻き込まれただけだと。
だが違う。
知らないうちに、
私はその一部だった。
中心ではない。
だが、確実に組み込まれていた。
通帳を閉じる。
数字は消える。
だが前提は、もう戻らない。
静かな裏切りが、
輪郭を持って立っていた。
そして私は、
初めて物語ではなく、
事実を見ていた。
