dorifamuの日記

〜番外編ばかりの毎日・感謝の気持ちを忘れないように〜 

私は名義だった・・残された側

第八章 残された側

 


彼が収監されたあと、生活は静かに元に戻る――

紀子は、最初そう思っていた。

 


これまでの慌ただしさが終わり、

日常が少しずつ落ち着いていく。

仕事に行き、家に帰り、

普通の時間が戻ってくるのだと考えていた。

 


しかし、実際に始まったのは、

静かな日常ではなく、

連続する連絡と確認と説明を求められる日々だった。

 


最初に増えたのは電話だった。

 


彼と一緒に事業に関わっていた人物から、

状況を確認する連絡が頻繁に入るようになった。

 


「今、どうなっているのか」

「どこにいるのか」

「連絡は取れるのか」

 


紀子自身も詳しい事情を知らなかったが、

それを説明しても相手は納得しなかった。

名前の入った通帳、

事業に関係していた書類、

そうしたものの一部が紀子の手元にあったため、

「何かを知っているはずだ」と思われていた。

 


やがて電話の内容は、

確認から疑いへと変わっていった。

 


「本当に知らないのか」

「何か隠しているんじゃないか」

 


言葉の調子が少しずつ強くなり、

通話が終わったあと、

手の震えが止まらないこともあった。

 


夜、眠ろうとしても、

携帯電話の着信音が頭の中で鳴り続けるような感覚が残った。

 


その頃、弁護士から連絡が入った。

 


収監後の生活について、

面会の方法や、

手紙のやり取り、

差し入れの手続きなどを説明してくれた。

 


「手紙を書いてあげてください」

 


そう言われたとき、

紀子は、まだ自分が支える側にいるのだと思った。

何が起きているのかは分からないが、

今はできることをやるしかない、

そう考えていた。

 


初めての面会の日は、

冬の空気が強く冷え込む朝だった。

 


早い時間の新幹線に乗り、

東京へ向かう。

車内ではほとんど眠れなかった。

 


駅に着き、

弁護士事務所へ向かい、

そこから地下鉄に乗り換えて拘置所へ行く。

 


入口で身分証を提示し、

面会票を記入し、

ロッカーに荷物を預ける。

 


手続きは淡々としていた。

だが、その一つ一つの動作が、

自分がこれまで経験したことのない場所に来ていることを

はっきりと感じさせた。

 


長い廊下を歩き、

面会室へ入る。

 


しばらく待つと、

彼が入ってきた。

 


髪は短く刈られ、

服装もこれまでとは違っていた。

だが、表情は思ったよりも落ち着いていた。

 


面会時間は長くなかった。

弁護士が同席していたため、

会話の内容も限られていた。

 


「大丈夫だから」

 


彼はそう言った。

 


何が大丈夫なのか、

具体的な説明はなかったが、

その言葉を聞いたとき、

紀子はなぜか

「自分がしっかりしなければいけない」と感じた。

 


面会を終えて外に出ると、

冬の光が強く感じられた。

建物の外に出た瞬間、

現実に戻されたような感覚があった。

 


その後も、

面会と手紙のやり取りは続いた。

 


指定された本を購入し、

差し入れとして送る。

郵便局へ行き、

送り状を書き、

手続きを済ませる。

 


その作業は、

日常の一部のように繰り返された。

 


だが、同時に、

別の現実も静かに動き始めていた。

 


事業に関係していた人々からの連絡、

未払いの費用の確認、

資金の流れに関する問い合わせ。

 


紀子は、自分が中心人物ではないことを説明し続けた。

だが、

「名義」がそこにある限り、

完全に無関係だとは見られなかった。

 


郵便受けを開けるとき、

知らない差出人の封筒が入っていないか、

無意識に確認するようになった。

 


電話が鳴ると、

一瞬、呼吸を止めてから出るようになった。

 


生活は、見た目には以前と変わらなかった。

仕事へ行き、

買い物をし、

食事を作る。

 


だが、その内側では、

いつ何が起きるか分からないという感覚が

静かに広がっていった。

 


収監されたのは彼だった。

しかし、

外に残された紀子の生活もまた、

別の形で、

これまでとは違う時間の中に入っていった。

 

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