dorifamuの日記

〜番外編ばかりの毎日・感謝の気持ちを忘れないように〜 

私は名義だった・・資金

第六章 資金

 


口座が作られてからしばらくして、

事業の動きは、それまでよりも目に見える形で進み始めた。

 


長谷川から届く連絡には、

「今日は東京」

「明日は長野」

「今、横浜で打ち合わせが終わったところです」

といった文章が並ぶようになった。

移動が多く、忙しそうな様子が伝わってきた。

 


紀子は、その様子を見て、事業が本格的に動き始めたのだと思っていた。

医療事業は準備に時間がかかるが、関係者が集まり、資金が動き始めれば一気に進む。

そういう印象を持っていた。

 


ある日、長谷川から連絡が入った。

 


「明日、銀行に一緒に行ってもらえますか」

 


理由は簡単だった。

口座に入っている資金の一部を動かすため、窓口での手続きが必要だという。

 


翌日、二人で銀行へ向かった。

平日の昼間の銀行は、人の出入りが多く、番号札を持った人たちが静かに椅子に座って順番を待っていた。

窓口の前には透明な仕切りがあり、職員の声が少しだけくぐもって聞こえる。

 


長谷川は、記入台で振込用紙と出金伝票を書いた。

ペンを動かす手は迷いがなく、書き終えると、それらの書類を紀子に渡した。

 


「窓口に出してもらえますか」

 


紀子は言われた通り、書類と身分証明書を窓口へ提出した。

確認が終わるまで、短い待ち時間があった。

 


その間、長谷川はATMの方へ歩いて行った。

特に急いでいる様子はなく、普段と変わらない落ち着いた動きだった。

 


手続きが終わり、現金の入った封筒を受け取る。

窓口で受け取ったとき、その厚みだけが妙に現実感を持っていた。

重さではなく、紙の束の存在感が手の中に残った。

 


銀行を出て、車に戻る。

長谷川は封筒を開き、中身を確認すると、紙袋を取り出し、札束をまとめて入れた。

そして、その紙袋を後部座席に無造作に置いた。

 


「一千万円くらいかな」

 


軽い口調だった。

特別なことをしているという様子はなく、日常の作業の一つのような言い方だった。

 


紀子は、その光景を見て、言葉が出なかった。

これまで、現金の束を目の前で見る機会などほとんどなかったし、

それをこんな形で扱う場面に立ち会ったこともなかった。

 


車が走り出す。

紙袋は後部座席の足元に置かれたまま、特に固定されることもなかった。

信号で止まるたびに、袋がわずかに揺れる。

 


「事業のお金だから」

 


長谷川は、それ以上説明をしなかった。

紀子も、それ以上質問をしなかった。

 


聞こうと思えば、聞くことはできた。

だが、そのときの紀子は、

「自分は手続きを手伝っているだけ」

という感覚を持っており、資金の詳細まで踏み込むのは違うような気がしていた。

 


銀行での手続きは、その後も何度か繰り返された。

振込、出金、確認。

そのたびに、紀子は窓口で書類を提出し、

長谷川は車の中で次の予定を確認する。

 


通帳の記帳をすると、口座には大きな金額が出入りしていた。

数字は確かに自分の口座のものだったが、

その金額は自分の生活とはまったく別の場所を流れているように感じられた。

 


この頃の紀子にとって、その口座は、

「自分の名前が書かれているだけの口座」

のような存在になっていた。

 


しかし後になって振り返ると、

この時期こそが、最も重要な分岐点だった。

 


名義、口座、手続き、資金。

それらが一本につながり、

形式の上では、紀子が事業の中心にいる形が出来上がっていた。

 


その意味を、当時の紀子はまだ理解していなかった。

ただ、頼まれた作業をこなし、

事業が順調に進んでいるのだろうと思いながら、

日常の延長のような感覚で、その流れの中に立っていた。

 


このとき、もし立ち止まって全体を見渡していたなら、

何か違う選択をしていたのかもしれない。

だがその頃の紀子には、

それが「分岐点」だとは、まだ見えていなかった。