dorifamuの日記

〜番外編ばかりの毎日・感謝の気持ちを忘れないように〜 

私は名義だった・・口座

第五章 口座

 


事業の準備が進み始めた頃、

長谷川から「書類関係で少し手続きをしてほしい」と頼まれることが増えていった。

 


最初は、簡単な確認作業や書類の提出だけだった。

形式を整えたり、必要な項目を記入したりする程度で、特別な判断を求められることはなかった。

医療事務の仕事で慣れている作業だったため、紀子にとってはそれほど負担の大きいものではなかった。

 


ある日、長谷川からメールで書類が送られてきた。

 


「これに捺印して、税務署に提出してほしい」

 


添付されていたのは、個人事業に関する届出書だった。

細かい内容について説明はなかったが、形式は整っており、記入箇所もほとんど埋められていた。

分からない部分はメールで質問すると、「そこはそのままで大丈夫です」と短い返事が返ってきた。

 


紀子は、特に疑問を持たなかった。

事業の準備の一環として必要な手続きなのだろうと思ったからだ。

 


税務署に書類を提出した後、

長谷川から次の指示があった。

 


「銀行で口座を作ってください」

 


事業用の口座が必要になるという説明だった。

これも、事業を始めるなら当然の流れのように思えた。

 


銀行で手続きを行い、数日後に通帳とキャッシュカードが届いた。

そのことを長谷川に伝えると、

 


「預かっておきます」

 


とだけ言われた。

 


深く考えず、紀子は通帳とカードを渡した。

事業のための口座なのだから、実際に使う人が管理するのが自然だと思ったからだ。

 


しばらくしてから、長谷川に銀行へ一緒に来てほしいと言われた。

車で銀行へ向かい、窓口での手続きが行われた。

 


振込用紙や出金伝票の記入は長谷川が行い、

窓口に提出する役目を紀子が担当した。

その間、長谷川はATMで別の操作をしていた。

 


手続きが終わり、銀行の外に出る。

車に戻ったとき、長谷川は紙袋を後部座席に置いた。

中には札束が入っていた。

 


「一千万円くらいかな」

 


軽い口調だった。

 


紀子は、その光景に戸惑った。

それまで現金の束を目の前で見ることなどほとんどなかったし、

それをあまりにも無造作に扱う様子に、現実感が追いつかなかった。

 


だが、そのとき紀子は、

そのお金がどこから来て、何に使われるのかを詳しく聞こうとは思わなかった。

事業の資金なのだろう、と自分の中で説明をつけたからだった。

 


数日後、通帳の記帳をしたとき、

口座に大きな金額が入金されていることを知った。

 


数字を見ても、最初は実感がなかった。

自分の口座でありながら、

そのお金が自分の生活とはまったく関係のない場所にあるように感じられた。

 


この頃の紀子にとって、

その口座は「自分のもの」でありながら、同時に「自分のものではない」存在だった。

 


通帳もカードも長谷川が管理し、

お金の動きについて詳しい説明を受けることもなかった。

必要な手続きがあるときだけ、

「ここに署名してほしい」

「この書類を出してほしい」

と連絡が来る。

 


紀子は、その都度対応した。

それが事業を進めるための手続きなのだと思っていたからだ。

 


しかし後になって振り返ると、

この口座が作られた時点で、

紀子の名前はすでに、事業の表面に立つ形になっていた。

 


その頃の紀子は、まだ、

その意味を正確に理解していなかった。

ただ、頼まれた手続きをこなしているだけだと思っていた。

 


だが実際には、

その口座を通して流れ始めた資金が、

この先、紀子自身の人生を大きく動かしていくことになる。

 

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