第三章 事業の話
交際が始まってしばらくした頃から、
長谷川は自分の将来の計画について話すようになった。
それまでの会話は、出張先の話や、改装に関わった施設の話など、断片的なものが多かった。
どこへ行った、どんな建物を見た、今はどこの案件が動いている。そうした話は、仕事の報告のようでもあり、雑談の延長のようでもあった。
だが、この頃から、もう少しまとまった形で「これからやろうとしていること」を語るようになった。
ある日の食事の帰り、車の中で、長谷川は少しだけ声の調子を変えて言った。
「これからは医療関係の事業をやろうと思っているんです」
いつもの軽い口調ではなかった。
説明を始める前の、少しだけ間を置いた話し方だった。
高齢化が進む中で、訪問診療の需要は確実に増えていく。
宿泊施設の空き部屋を居宅として活用し、そこに医療サービスを組み合わせる。
宿泊施設の再生にもつながり、医療にも貢献できる。
そういう事業を考えているのだと説明した。
車は夜の道路を走っていた。
信号待ちの間、フロントガラス越しに赤い光が車内に差し込む。
長谷川はハンドルを握ったまま、視線を前に向けて話を続けた。
紀子は、その話を現実的なものとして聞いていた。
医療事務の仕事をしていたため、訪問診療という言葉には馴染みがあったし、実際に必要とされている分野であることも理解していた。
ちょうどその頃、紀子自身も将来のことを考えていた。
子どもの進学を控え、これから教育費が必要になる。
生活は成り立っていたが、余裕があるわけではない。
本業の収入だけでは不安があるため、何か副業を考えなければならない、という思いが少しずつ強くなっていた。
書類作成なら手伝えるかもしれない。
医療関係の手続きなら、多少は経験がある。
そう思い、あるとき紀子は、長谷川に言ってみた。
「もし手伝えることがあれば、書類くらいならできると思うんだけど」
長谷川は、すぐには答えなかった。
少しだけ考えるような間を置いてから、落ち着いた声で言った。
「もう人は決まっているんです」
その言葉は、はっきりしていた。
拒絶されたという感覚はなかったが、これ以上踏み込む余地はない、という空気は伝わった。
紀子は、それ以上何も言わなかった。
もともと強く希望していたわけではない。関われるなら、という程度の気持ちだったからだ。
しばらくして、状況が少し変わった。
長谷川から、医療機器関係の会社を知らないかと聞かれた。
施設の設備を整えるために、紹介できる会社があれば助かると言う。
紀子は、仕事を通じて知っていた会社を思い出し、連絡先を伝えた。
それがきっかけになった。
数日後、長谷川から連絡が入った。
「書類関係、少し手伝ってもらえないかな」
紹介した流れで、一時的に確認作業を頼みたいという内容だった。
大きな役割ではなく、形式を整える程度の仕事だという。
紀子は、深く考えずに引き受けた。
紹介した責任もあるし、短期間の手伝いなら問題ないと思ったからだ。
最初に依頼されたのは、簡単な書類の確認だった。
形式の修正や、必要な項目のチェック。
それほど時間のかかる作業ではなかった。
この時点で紀子は、
「事業に参加している」という意識は持っていなかった。
あくまで、一時的に手伝っているだけだと思っていた。
しかし後になって振り返ると、
この時期が、紀子の名前と役割が少しずつ事業の中に入り始めた最初の時期だった。
その時の紀子は、まだそのことに気づいていない。
ただ、「少し手伝っているだけ」という軽い感覚のまま、
静かに、事業の流れの中へ足を踏み入れていた。
