第二章 違和感のない違和感
交際が始まってからも、紀子と長谷川の関係は急激に変化したわけではなかった。
毎日会うわけでもなく、特別に情熱的なやり取りが続くわけでもない。
ただ、日常の中に静かに存在する関係だった。
連絡の中心はメールだった。
朝、短い挨拶が届く。
「今日は寒いですね」
「今日は移動が多くて忙しいです」
そうした、特別な意味を持たない文章が続いた。
昼休みに返信を送り、
夜には「お疲れさま」と一言届く。
それが毎日繰り返された。
電話は、ほとんど使われなかった。
最初の頃、紀子はそれを不自然だとは思わなかった。
仕事が忙しい人なら、通話よりもメールの方が都合がいいこともある。紀子自身も、長電話を好む方ではなかった。
長谷川は、仕事について少しずつ話すようになった。
古いホテルや旅館の再生に関わる仕事をしていると言った。
施設を買収する立場ではなく、改装計画や再生プロジェクトを請け負う形だという。
「古い建物って、手を入れるだけで価値が戻ることがあるんです。
眠っているものを起こす仕事ですね」
そう話すとき、長谷川の口調には迷いがなかった。
専門用語を並べるわけではないが、現場を知っている人のような言い方だった。
紀子は、その話を疑うことはなかった。
むしろ、社会に役立つ仕事をしている人なのだと思った。
交際が続くにつれ、二人で出かける機会も増えた。
コンサート、観劇、映画。
行き先は地元だけではなく、東京や大阪、神戸へ行くこともあった。
移動は新幹線を使うことが多く、座席はグリーン車だった。
紀子はそれまでグリーン車に乗る機会がほとんどなかったため、最初は少し落ち着かなかった。
料金を気にしてしまう癖が抜けず、何度も「本当にいいんですか」と聞いたこともあった。
長谷川は、そのたびに軽く笑って言った。
「気にしなくていいですよ」
食事も、普段自分では選ばないような店に連れて行かれた。
特別に高級というわけではないが、値段を確認せずに注文できる店だった。
誕生日やクリスマスには、プレゼントも用意されていた。
紀子は、長谷川を「余裕のある人」だと思うようになった。
大金持ちという印象ではない。
ただ、生活に困っていない人、という感覚だった。
最初に小さな違和感を覚えたのは、コンサートへ行く約束の日だった。
地下鉄の中から長谷川に電話をかけた。
待ち合わせ時間が近づいていたため、到着を知らせようと思ったのだ。
しかし、電話はつながらなかった。
地下鉄を降り、地上へ出る。
交差点の向こう側に、長谷川の姿が見えた。
携帯電話を耳に当て、誰かと話している様子だった。
紀子は少しだけ立ち止まった。
電話がつながらなかったことより、
「今、別の誰かと話しているのだ」と思った瞬間の方が印象に残った。
信号が変わり、紀子が近づくと、長谷川は紀子に気づき、電話を切った。
何もなかったかのように笑い、こちらへ歩いてきた。
紀子は、その場では何も聞かなかった。
まだ親しい関係ではなく、問いただすほどのことでもないと思ったからだ。
ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
その後も、連絡の中心は変わらずメールだった。
電話をかけてもつながらないことは時々あったが、折り返しが来ることは少なかった。
忙しいのだろう、と紀子は自分の中で説明をつけた。
違和感は、はっきりした形で現れることは少ない。
多くの場合、それは説明できない小さな感覚として残るだけだ。
紀子は、その感覚を特別なものだとは思わなかった。
ただ、心のどこかに、薄い印のように残っていった。
そしてその印は、後になって振り返ったとき、
確かにそこにあったと分かるものだった。
そのときにはもう、元に戻ることはできなかった。
